宗教は、教えを行ずることに徹し抜くこと。


  昭和五十四年二月二十五日    朝の御理解

御理解  第  七節    「天地金乃神は昔からある神ぞ。途中から出来た神でなし。天地ははやることなし。はやることなければ終わりもなし。天地日月の心になること肝要なり。信心はせんでもおかげはやってある」


  金光教においての助かり、その助かりとも言うべき御教えだと思います。助かりの原点です。
  昨日は大和さんの処の恒例の謝恩祭がまあ本当に一家親類を挙げてのお祭り、合楽教会のハイクラスのご信者さんが殆ど集まると言うような盛大なお祭りでした。年々歳々内容が充実していく本当に有難い事だと思います。本当にそのおかげを感じるお祭りですね。

  私は金光様のご信心はもう日々がね、いわゆるおかげを感じる生活でなからなきゃいかんと思うです。「今日は一日、おかげを頂ききらんじゃった」といったような事があってよかろうはずはないのです。「今日もおかげを頂いた」というおかげの実感ね。
  例えば商売に出て、今日は、ま  売れなかったと致しましょうか、「もう今日はさんざんじゃった」といったようなものじゃなくてです、今日はもう本当に言うなら家業の行なのですからね、家業の行ですから言うならば修行させて頂いたと。「今日も本当に結構な修行させて頂いた」と言うて、結局その修行させて頂いた事に対するおかげの実感というものがね、日々あらなければだめだと思う。

昨日あちらへ参りましたら、部屋のたた住まいと言うものが去年とは大分変わっていた。例えば装飾、調度品のようなものに工夫がこらしてあった。額とか短冊とか言ったようなものにも去年見たものではなくて別なものが全部取り替えてあった。入って玄関のすぐのところに、これは阿倍野の先生のお言葉だと言われております「家業こそ  このみちの修行である」家業こそ  この道の修行と、それを私が書いておるのです。阿倍野の先生のお言葉なんですね。ですから今日一日家業の行が出来たかどうか、まあ今日はとにかく忙しかった、忙しかった、今日は大分儲かったろうと言ったようなものではなくてね。
  それから床の間の違い棚的なところがございます。そこには「山吹きや  かけいで足を洗いおり」と言う、これは二十数年前に椛目の時代に頂いた御理解、これは俳句です。「山吹きや  かけいで足を洗いおり」と言う色紙が入れてある額が下げてございました。ご承知のように“山吹き,というのは花は見事に咲きますけれども実が稔らないというね。
  信心はどんなにきらびやかな信心をさせて頂いておっても、言うならご用が出来ておると言うてもそれがね、徳になって稔らなかったらつまらんでしょう。
  初代の時には、先代の時には、はぁ  あちらの先代の時にはそれこそ総代までなさって大変なおかげを頂かれたけれどもね、けれども子供さんやお孫さんになったら信心が段々途絶えていったと、そりゃあ一生懸命お参りもしよる、ご用もしよるからやっぱりおかげ頂くんです。ところが子供たちはそれが出けんね。それにはやはりです、昨日の御理解じゃないけれども、お礼の足りないお詫びばかりをしておりますと言ったような信心が段々出来てくる。これなら昨日の御理解を引用しますと、ここまで至った時にいわば金光大神の御理解第  百節にあります子孫繁昌家繁昌の道と言うのは、こういうことであろうと昨日聞いて頂いたんですね。
  おかげを頂いて、頂いてね、そのお礼の足りないそのお詫びばかりをしておるという謙虚な充実した信心、そのためにはね、自分の内容が変わらなければだめですね。
“足を洗いおる,ということはね、今までの生活から足を洗ったという事ですね。遊び人の人達がね侠客といわれるような人達が、例えば普通の生活に還るような場合をですね、足を洗うと言うでしょう、言うならもう人間が二人見るように改まっていく、変わっていくということなんです。「山吹きや  かけいで足を洗いおり」
  私の控えにしておるところには色紙の「天真地心」とございました。天の真、地の心と言うのです。短冊には“家庭に不和の無きが元なり,と言う短冊が掛かっておりました。
  もう家のどの部屋に行っても、言うならば教えがいっぱいある。それで私は昨日その事から申し上げたことですけれどもね、どの部屋へ行ってもみ教えが掛かっとる。果たして今日はこのみ教えに徹することが出来たであろうか。果たして今日は天の心、地の心になる事に精進したであろうか、家庭は円満であるだろうか。今日は一日、本当に家業の行が行として出来たであろうか、ともう日々言うならば自分の姿、自分の心というものを映す鏡がそこに掛けてあるようなものだというて話を聞いて頂いた事でしたね。
  それこそあのガマの膏薬ですね、ガマの油売りの宣伝のセリフじゃないですけれども、それこそガマを四角四面のガラスの中に入れる。上を見ても下を見ても周囲を見ても、自分のあの見苦しい姿が映る。もうそれこそガマは、自分の見苦しい姿にです、それこそ油汗を流して鏡に映った自分の姿に、ま  何という汚い見苦しい自分であろうかと思う、それにその油汗が出る程しに。その油汗を集めて練り上げたのがあの傷に良く効くというガマの油だと言うてね、ガマの油売りが言う言葉なんですけれどもね。
  大和さんのところの自分の周囲には、鏡とも思われるようなみ教えが、どの部屋に行ってもある。それこそ自分の心と自分のやっておる事、行のうておる事を思う時にです、本当に慙愧にたえない、改まらにゃでけん、信心のない時には、もうこん位の事は人間じゃから当り前のごと思うとった。信心をさせて頂いて教えの鏡を前に立てて見るとです、はあ今までの自分が相すまん自分であった、という事だけではなくて、汚れておる所が目立ってくる、歪んでおる所が分かってくる、それをまっすぐに直していく。汚れとる所は綺麗にしていこうという精進がそのまま信心なんですね。そういうみ教えを、昨日はあちらで頂いた。
  その根本を成すものがどういう事かと言うと、今日の御理解の「天地日月の心になること肝要なり」と言うのです。これが金光教の独自の助かりの原点です。
  天の心に、地の心に、日月の心に、だからどの心にでもよいから本気で言うならば、「天の心」というのは限りなく美しくなる事に精進をする。「地の心」それこそ、土の心である。もう黙って受けぬくと言うこと。
  昨日この事も聞いて頂いたんですけども、宗教というものはね、哲学以上の哲学だ。超哲学というふうに言われます。だから言うならば、そういう難しい事をいわんでもですね、合楽理念をもってするとこの天地日月の心がです、そうせずにおられんように書いてある、そうする事が楽しくなってくる、有難くなってくる。天地の交流が出来てくる。天地のリズムが響いてくるようになる。そのリズムに乗っての生活をもって信心生活というのぞ、というような事がですね。

  私はある教会のご信者が参って見えた方に話したことですがね、その方は踊りのお師匠さんです、神の湊というところがあります。そこでやっぱり踊りの師匠をしておられる方が、大変ここにお参りをしておかげを頂いておる。もちろん神の湊の教会のご信者である。けども何か難しいことがあると、ここにやって見えてお願いをなさっておかげを頂かれる。先日はお母さんの、もう死ぬか生きるかという、医者は難しいと言う。十何日間か御飯もいけん、湯水も通らないという時に神様に毎日電話でお届けがあった。そういうある日に、イチゴが欲しいと言われた。何も食べられないお母さんが、ところが神の湊と言えば小さい町らしいですから、その時分に果物屋にまわったけれどもイチゴがなかった。その時に突然ご主人が勤めに出ておられるとが、昼帰ってきなさった。今日は早引きで帰ってきなさった。そして友達が家にイチゴ畑を作ったが、イチゴが見事に成ったけん、これはお母さんに差し上げてくださいと、お母さんが病気という事は知らんのに、その友達は上げて下さいと言うてもって来た、と言うて一箱イチゴを持ってきた。もうそれこそお母さんよりもここにお参りなさる踊りの先生の方が、もう有難いやら、びっくりするやら、恐れ入ってしまう。「おばあちゃん、イチゴち言いよんなさったイチゴが今お父さんが持ってきて下さったよ」というて上げたら、大変喜んで一つ食べなさった。それからね、食物が食べられるようになった。勿論それから何回も、もう難しいといったようなところを通られましたけれども、全快のおかげを頂いた。その話をもう一人の、これはもっと素晴らしい踊りの師匠さん、長崎の方にお話をした。その方も長崎のある教会で、長年の信心をしておられる。今時そういう教会があるなら、先生がござるなら是非自分を連れて行ってくれというわけなんです。で昨日お参りして見えたわけなんですね。とにかく、例えば歌なら歌でよい、三味線なら三味線でよい、その長唄なら長唄でもよい、長唄を聞く事が好きな人と、三味線を弾いて自分で唄う事が好きな人がある。
  この頃の金光教の信者さんにはね、あれが合うとるの、違うとるのと言う評論家ばっかり多くなってから、自分では弾ききらんくせに、弾き方が良いの悪いの、あっ唄の声が良いの悪いのとかを言う。
  そげな事じゃ一つも本当のおかげにならない。自分自身が三味線を握って、自分自身が調子を合わせて来れるようになって、そして自分が弾いていくという稽古に入らなければ、言うならば長唄なら長唄、三味線なら三味線の楽しさも喜びもないです。只聞くだけでは聞く楽しみだけではいかんね。そういう関係にある方ですからその意味の事が非常に分かられた感じでした。本当ですね、なら三味線を聞いていうなら耳は肥えとる、御理解を皆さんが頂いて、合楽で言うなら耳は肥えとるけれども、その御理解を自分のものにしよう、自分の血肉にしよう、という精進をしないならばおかげは受けられんね。
  まず調子を合わせ習わにゃいけん、言うなら天地との調子をね、心と天地とのつながりを、合わせれる修行をさしてもらう、そこから妙なるリズムが生まれてくる。言うならば天の心、地の心、日月の心と言ったような、も絶対の道なのですからね、絶対の妙音が。

  宗教は哲学だ、以上のものだと言うふうに難しう言わんでもね、私はもう確かに宗教とは徹することですけれども、難しい学問を勉強するようなもんじゃない。言うなら「天の心」なら天の心だけに、「日月の心」なら日月の心だけに、「土の心」なら土の心だけに本気でそれに徹することなんだと、それを貫くことなんだ。私は今日はそのことをしきりに思うんです。成程、徹することだとね。
  この道は絶対だ、という道を教えて頂いたならば、その道を他のことは出来んでもこの事だけは徹底し抜くという事が宗教だ、信心だと。そういう意味で成程宗教は超哲学とも言えるでしょう。徹する事なのですからね。
  どんなに素晴らしい教えを沢山頂いておっても、それが血にも肉にもならないなら、それは只三味線なら三味線を聞いてあ々いい音だなと、あれは調子が違うとると言う位な事がわかるだけじゃいかん。自分が三味線握ってみて、自分が調子が合わせられる修行稽古をしなければならないということであります。

  昨日  お道の新聞が参りました。一面記事のところに「布教の原点とその展開を求めて」という見出しのもとに、ある先生が書いておられます。
  「布教の原点」だから全信奉者が布教者、言うならばお道の先生などはまあ布教者なんですね。これも昨日ある教会の先生がお参りになりました。「最近の言わば教団は、どうすりゃ信者がお参りになるじゃろうかね」と言うて、信者がお参りをしてくる事の手立てを色々と工夫してある。人が寄りつき勝手が良いように、若い者が集まってきたらレコードコンサートなんかを開いたり、子供が参って来たら雑記帳とかエンピツを配ったりとかね。そういう手立てだけに言わば血道を上げているのが今の教団じゃなかろうかと。
  問題は言うならばお道の教師にでもお取立てを頂くということは、もういよいよもってめぐりの深いものばっかりなんですから。めぐりの自覚に立ってその先生自身がまず、自分が助かろう、自分が力を頂こう、自分が調子を合わせて習おうという生き方にならなければ信者は助からんですよと言うて話した事でした。
  お話を頂いて下さって、先生  私に一言でよいから何かみ教えを下さいと言われた。
  それで私は、とにかくお道の教師自身がね、めぐりの自覚に立たなければいけません。それこそ、さっきのね、ガマの油じゃないけれども自分という者を言うなら周囲に鏡を立ててある。自分の姿が映っても映らなかっても改めようとはしない。自分の内容というものを見ても、それを一つも言うならばガマの油じゃないばってん、自分の姿を見て油汗を流すような思いを一つもしない。お道の教師だってやっぱり人間だから、といったような考え方をしておる。
  教えの鏡を立てれば自分の姿が映る。こういう事では人が助かるはずがないと、自分自身が助かることの手立てを立てればと簡単に申しましたら、もう本当にそうです。めぐりの自覚に立たなければいけません。実は二三日前、立った一人の娘さんが発狂された。だから精神病院に入れた。とてもこういう難儀な病気はございません。こう言うとにかくめぐりの深い証拠だと言うて、その事をお届けして帰られました。だから自分の深いめぐりに立って自分が助かることに一生懸命になっておれば、力が出来れば人は集まってくる。そして人は助かるね。この布教の原点と言うのでもです、もう金光教ここ百年の間の言うなら布教の原点と言うのは、成程こういう事であったかと言うふうに思うんです。
  この先生が布教に出られた時には半年余り誰も参ってこなかった。まだ若くて来られたね。勿論、親教会から立ち行くだけは何とかしてもらわれたんでしょう。そして月次祭ともなっても一人のお参りもないから、壁に向かって一生懸命御理解を説いたと。お説教されたと。半年間続いた  ね。そういう難儀、苦労された先生方はたくさんある。それがね、ここ百年の間に金光教の布教者の開拓といったような新地布教と言うのには、こういう難儀が伴うんだと、こういう修行を苦労をして下さって先代は道を開かれたんだというようなことが美談のように言い伝えられてきたと言うこと。しかもそれが布教の原点だと言っておるんです。そんなこっちゃなかて  ね。
  そりゃあ成程初めの上から下へ水を流すのではなく、下から上へみずを流すようなものであるから時間がかかる、暇がいると教祖様はおっしゃっておられるけれども、だからそこを修行の時間、言うなら教会修行の間にそこんところを習得させて頂いて、布教に出たらもう、あれよあれよと言うように人が助かっていくような、その事実の例がここ近所で言うなら甘木の初代なんですね。甘木の里に出られた途端に人がどんどん助かったんです。そのかわりに教会修行の七年間というものはみっちり修行を、言うならばね、神の実感神の実証をしてみえて布教にでられたんです。
  ここでは末永先生なんかがやっぱりそうでしょうね。それこそもう十日間というのは誰も参って来なかった。けれどもその十日間の間にでもです、もうとにかく御結界に座っておって、神様の働きと言わずには思わずにはおれないような事柄が続いたんですね。
  信太郎が帰る帰ると言うて毎日泣くげなもん、もう本当にそれこそ切ないわけですね。夫婦の者がそれで泣いて神様にお願いさせて頂きよったら、帰る帰ると言うて泣きよった信太郎がね、行こう行こうと言うて泣くごつなったげなね。もうその時に本当に、まあ神様の働きというものを実感したね。その十日間余りの何日間だったでしょうか一晩中モ-タ-の音がした。発動機の音がする。だからここの近所にモ-タ-のどこかすえちゃる所があるかと言うたら、そういうところはどこにもないと。ははぁ神様のご発動が始まるなあと思うたと。それからもう何日もせずにとにかく人が、言うならばブラジルの人が一番初めに参って来た。その人が助かっておかげを頂いて、段々言うならば白も黒もそして黄も助かるようになった。半年の間に毎日百名からのお参りがあるようになった。ねぇ、それに壁に向かってお説教を半年も、せんでしょうが。
  しかし、そういう事が美談のように言われて来る金光教であるのですから、金光教のこれは独自的な布教というものはね、本当に神の実感と神の実証が出来てそして布教に出るという生き方を身につけるならば、そんな苦労はないね。布教の原点が変わってくるというふうに、昨日は私この事を研修の時に皆に話した事でした。
  だから皆さんとても同じ事ですね。いつまんでんおかげ頂ききらんじゃなくて、もう宗教は哲学以上の哲学だということは、難しい勉強をするという意味じゃない。その事に、これならば絶対というものをわからせて頂いたならば、その絶対といわれるその事にもう徹し抜くことだということ。

  土の心なら土の心に、天の心なら天の心に、日月の心なら日月の心にいよいよ徹しぬかせて頂くというところから、天地の言うならリズムを聞くことが出来るようになり、リズムに乗っておかげはやってくるそういうおかげを頂く、同時になら合楽ではそういう修行はせんでも只お願いをしてね、言うならばですね、昨日、一昨日ここの千恵子先生の学院の時の友達が半年前に大阪で私の話を夫婦で聞いた。人の助からん教会である。ところがあのお話を頂いてね、とにかくもう一番初めに「私の話を聞いて感じて下さったら助かる、私の話を聞いて下さってわかったら信心が進む」この一言を聞いた時に、これは本気で頂かにゃと言うて夫婦で一生懸命、言うならば私の話を聞いた。早速夫婦で話し合って、合楽の生き方に切り替えてしもうた。ところがどうですか、昨日一昨日来とる手紙にはです、毎日じゃない、日曜たんびに?少の子供たちが三十名づつも集まってくるごとなったげな。おかげを頂いてあちらこちら山を越えた向こうの方にまで言うなら、共励会場が出来るようになった、月次祭たんびに必ず信者が増えるという程しのおかげを頂いておるという手紙が千恵子先生宛に参っております。
  だから言うなら合楽理念に徹したわけです。それがどうやらこうやらで立ち行きよるとね、なかなか、ほう  と言うただけで聞き流すわけですけども、本当にやっぱり立ち行かない教会ですからもうそれをゴロリと合楽理念の生き方に変えた訳です。そしたらそういうおかげになっておるという手紙が参りましたように、ここにお参りをさせて頂いてお話を頂だいてもです、もう本当に生活全体が変わらなきゃだめなんだ。生き様が変わらなきゃだめだね。それがね、言うならば徹し抜くと言うね。

  今日の御理解で言うと、「天地日月の心になること」とおっしゃるから、天地日月の心とはなかなかなれんでも只一言でもいい、日月の心、日の心でもいい、月の心でもいい、天の心でもいい、地の心でもいい、どれかこれだけはと言うようなですね、言うなら生き方が生活の全面にしみ通ってくるようになるとね、調子が分かってくるね。調子が分かったから、なら三味線でも何もかも弾きこなせると言う事じゃないです。調子が分かるとね、どういう難しい難曲を弾いてもそれが楽しうなってくるです。難しければ難しいほど楽しうなってくるですね。只聞いてから良いの悪いのと言うのではなくて、自分自身が弾き習わなきゃ、自分自身が調子を合わせて習わなければ。為には言うならば、私は今日はこの御理解第七節をとにかく金光教の助かりの原点的なみ教えだと私は思うです。
  だから守ったり守らなかったりじゃなくそれに守ることに徹する。そこから言うならば有難うなり楽しうなり、それこそリズムに乗っていく時には、それこそ愉快な心までも頂けるようになってくる。
  自分の心の、自分の周囲に鏡を立てなさい。大和さんのお宅じゃないけれども、どこを見ても鏡ばっかりだ、教えばっかりだ。果たしてその教えを前に立ててみて、今日はこれが出来たか、出来なかったならば出来ない私であるけれどもこのようなおかげを頂いてね、お礼の足りないお詫びばかりを、と言うお詫びに徹するような信心が身についてくる。そこからね家内全体の生き方、おかげの進展が約束される訳ですね。

今日はこの御理解第七節を「助かりの原点」というふうに聞いて頂きました。「どうぞ」


                                            「どうぞ」